巡洋艦 矢矧(ヤハギ) - 沖縄戦の記録(昭和20年4月)

昭和20年4月、我が『矢矧』は沖縄決戦に特攻隊として出撃の命を受く。

『矢矧』はその時、呉軍港に在泊中。昭和20年4月4日、戦艦大和を主艦とする沖縄特攻隊の命(めい)下(くだ)る。

その夜、「大和」『矢矧』、駆逐艦6隻からなる日本海軍最後の健在艦隊は静かに呉港を出発した。兵員の被服その他、不必要な物件はすべて呉港で陸揚げ、身軽な艦隊。重油とて満載していなかったという(後で知る)。

途中、大分県の○○沖合いに仮泊したその頃、敵潜水艦は豊後(ぶんご)水道付近まで出没し、我が艦船の航行を見当次第攻撃すべく接近していた。

わが特攻隊は、その夜、全員、酒・菓子等の配給を受け、今度は到底(とうてい)生きては帰れない。燃料も沖縄に行くまでの 必要量しか補給していないとのことである。いよいよ最後の御奉公の時が来たと思った。

艦長より今夜は充分飲んで休めとの伝言であった。乗組員は之(これ)が最期だ。みんな心おきなく飲んで騒いだ。そして夜半頃、寝に着いた。勿論、ハンモック等も持っていない。

いつしか夜も明け、出港準備。鹿児島沖へと向かった。時に4月6日、その夜は一応、鹿児島指宿(いぶすき)沖に仮泊した。そして夕食が出た。赤飯である、好物だ。その時も一合当の配給があった。これが最期だ。一同乾杯した。そして万歳を三唱した。みんな寝ようとする者がなかった。

その夜の明け方、4時出港準備、之(これ)から目指す沖縄へ。特攻隊の任務は重い。夜も明け渡り、朝食もすんだ。午前9時頃であった。上空に護衛機が3機、鹿ノ屋航空隊からである。「貴艦の武運を祈る」との信号を送ってきた。お礼の返信、その後も1時間程、護衛して呉(く)れていた。<午前>11時頃である。全員昼食を終えた頃、上空の護衛機より「我、燃料少し、帰還する」との信号を残して雲間(くもま)に消えて行った。

その後である。艦橋の見張員が大声で叫んだのだ。私は丁度(ちょうど)その時、艦橋の電話器の修理に行っていた。「敵機、左20度、高度2千メートル。こちらへ向かって来る」との報告。砲術長が直(すぐ)に対空戦闘用意と号令した。私は急ぎ配置に戻った。

みれば約30機、我が方に向かって来る。機銃及び高角砲が一斉に火を噴いた。主砲も発砲している。勿論、その頃は射程距離ではない。威嚇(いかく)射撃である。しかし、敵機は益々近づいて来る。この時は艦の隊形も乱し、全艦ジグザグ運転。遥か向うの方では「大和」の全機銃(数百基)も火を噴き、艦全体が火の玉の様であった。敵は艦上雷撃機。近くに母艦が居たのだろう。黒いカタマリとなって「大和」に襲いかかっている。

こちらも10機程が本艦に襲いかかっていた。右前方 千米(メートル)程の距離から海面すれすれの低空で魚雷を発射 するのを見た。敵も中々勇敢であった。本艦に魚雷命中。上からは爆弾投下してくる。最早(もはや)絶体絶命だ。魚雷一発、前部機械室に命中したのだ。艦が大きく振動したと同時に15度程右に傾いた。又、命中した。同じ附近である。

私は上甲板の艦の中腹より一寸(ちょっと)後部の処(ところ)に居た。頭からどうっと海水をかむった。この時、本艦搭載の魚雷塔に弾片が命中。魚雷に充填している圧搾(あっさく)空気が爆発し、塔内にいた4人が即死。一人は火だるまとなって自分の横を去り抜け、海中に飛び込んで行った。寸時の出来事である。もう一人は右足の付根(つけね)から切断された。足と共に自分の側に横たわっている。私は思わず目をつむった。その時はもう敵機も去っていた。

でも本艦は主機械をやられて艦は動かない。近くにいた駆逐艦がいたわる様に『矢矧』に接近して来る。本艦の参謀本部を移乗させるためであった。

やがて駆逐艦も離れて行った。他の艦も「大和」を始め健在である。本艦だけやられていたのだ。

それから30分とたたなかったと思う。又も敵機来襲。又々(またまた)30機程であった。その大部分が「大和」目がけて  集中攻撃している。中の1機が先程の様に低空で『矢矧』目がけて魚雷を発射した。動かぬ艦だ。間もなく命中した。その時、私は目の前が真暗(まっくら)になった。やられた………と思った。しばらくして気が付いた時は泳いでいた。ァ………助かったと思った。『矢矧』は次第に沈んでいった。私は無意識の内に泳いでいた。艦の反対方向へ……3百メートルも離れたかと思う頃、『矢矧』は赤い艦底を見せて横倒しとなり海中深く沈んでしまった。この時、私は泣いているのに気付いた。轟音(ごうおん)を残して。………

その頃、「大和」も遥か水平線の彼方で黒煙物凄く炎上していた。しばらくして一際(ひときわ)大きな火柱が上がった。と同時にあの大きな鉄の島<全長263m、幅39m>、不沈艦として建造された戦艦「大和」も真黒い煙を残して沈んで行ったのだ。誠に見るもあわれな最期であった。その頃はも(も)早(はや)、敵機の影はなかった。

<大澤氏メモ書き> 矢矧も魚雷7本程命中したのを覚えている。爆弾も数発命中した。本艦が一番先に沈没、そして大和。護衛していた駆逐艦も3隻が沈没。1隻が大破、2隻は小破。この1隻が我々を助けに来た。戦艦大和には数十発の爆弾と数本の魚雷が命中したとの事であった。最後、一番砲塔下の火薬庫に誘爆して沈没したようである。本特攻隊に参加した総兵約5200人。その中、助かった者、約千人足らず。私もその中の一人である。

私は円材につかまり泳いでいるのだ。自分も今はあわれな身。全艦全滅したのか、艦らしき姿は見えない。右を見ても左を見ても島影すら見えなかった。最早(もはや)これまでかと思った。その頃、右足が痛むのを感じてきた。怪我をしている様である。しかし見る事もできない。一本の丸太ん棒を命の綱としてしがみついていたのである。

もう何時だろうか。この時かすかに爆音が聞こえて来た。敵か味方か………。暫(しばら)くすると水上機が1機遥(はる)か 彼方に着水しようとしているではないか。敵機だと思った時、突然機銃の音。ダダダダ………とそして頭上を一発、ヒユウーンと言う音を残して飛んで行った。機上より我々浮泳している兵を目がけて掃射して来た。思わず海中にもぐった。ものの5分程だったと思う。やがて水煙を残し、飛び去った。ホットした。

南の海とは言え4月の初旬である。寒くなって来た。ああ、このまま硬直して沈んでいくのではないかと思った。しかし気はまだまだ確かだ。日も大分、西の方に沈んでいる。どうやら薄暗くなって来た様に感じた。

その時である。正(まさ)に天の助けか、水平線上に艦の影が映った。しかし、敵か味方か分からない。次第に近づいて 来る様だ。駆逐艦だ。しかも日本の艦だ。思わず、助かったと叫んだ。ぐんぐん近づいて来る。ボートが下りた。我々を助けに来て呉れたのだ。これで本当に助かったと思った。自分もその方へ泳いで行った。そして、ボートに救われたのであった。

こうして数時間後、艦上の人となった。身体は大分(だいぶ)つめたくなっている。早速、機械室に入った。この時、自分が又々(またまた)助かったのだと思った。その時、急に足の痛さが  増してきたのである。その事を乗組員に告げると、小さな医務室に案内してもらった。軍医に見せた処(ところ)、右下腿部に摺傷(すりきず)があった。軍医が「なんだこれしきの傷が」と言ってヨウチンを一寸(ちょっと)つけて、「よりすぐ治る、心配するな」と言った。

そして、又(また)機械室に戻って座った。と同時に眠くなってきた。自分も大して傷も気にかけず、いつしか寝入っていた。無理もない。6、7時間も泳いでいたのだ。やがて誰かに起こされた。「おいもうすぐ佐世保に帰へるそうだ」と誰か言った。みんな如何にも嬉しそうな顔をしていた。きっと自分もそんな顔をしていたに違いないと思う。

やがて艦が佐世保港に入港した。上陸する用意をしていた。艦(ふね)は止まった。しかし一行に降りる気配がない。陸上からの指令がないとの事である。朝食もせず9時頃まで待ったと思った。その時である。陸上でそれも海軍工場の中で爆発が起こったのである。おい、あれは何かと乗組員に聞いた。空襲警報が発令されたとの事である。上空を見たらB29が1機銀色の胴体を光らせてゆうゆうと飛んでいる。山の上から高角砲が発砲していたが何分(なにぶん)にも高度が高過ぎる。遥か下の方でサク烈(れつ)している。ゆうゆうたるものである。間もなく雲間に消えて行った。

陸上では大分(だいぶ)被害があった様である。(後で分かった話では、女子艇身隊が工場で働いていた処へ投下され、多数死傷者があったとの事である)

その内、我々も上陸。ひとまず全員、佐世保病院に収容された。この時、佐世保病院に収容された兵は『矢矧(やはぎ)』乗組員が2百人、大和の兵が4百人程、他駆逐艦の兵が数人いたと言う。

一人一人身体検査があり、私は針尾の病院に入院する身となった。その頃には足も大分ハレて居り、骨が痛む様な気がしてならない。早速レントゲンにかかった。挫傷骨折と診断。すぐ佐世保病院に入院したのである。

闘病生活が始まった。

毎日毎日ベットの上で、一人過ぎし日の出来事を思い出しては、今こうしているのが不思議で不思議でならなかった。いつの世にも、人間一人、いとも簡単に死んでいく人もいるのに、私は何回となく生死の境を彷徨しても死に至(いた)らなかった。只々(ただただ)神の助けだと思った。

今も沖縄本島では各地で決戦が展開されているのだ。自分はこうしている間、何百人の国民が死んでいくのを思い、夜も中々(なかなか)寝つかれない。戦争と言う名の殺人鬼。一体だれがこの責任を負う可(べき)か。何のために戦うのかと一人ひそかに思う時もあった。

昔から伝統ある大日本帝国海軍の優秀な連合艦隊も、今はもう残り少なく、米国を相手にする程の戦力もない。何年間、いや何十年耐え抜かれた優秀兵士も一瞬の中(うち)に死んでいった。も早(はや)、再起不能な状態である。

では次に来るものは何か。本土決戦にいどみ、一億総自決か。又(また)この辺で無条件降伏か。二ツに一ツしかない。只(ただ)神のみが知る事であろう。

やがて八月も中旬を迎えた。私の足も大分よくなっていた。今夜もどこかで空襲があったとか。その頃、私は佐賀県の武雄温泉にある海軍病院武雄分院に入院していた。そして、8月15日を迎えたのである。

その時、私は11月15日まで帰郷療養の許可を受け、兎(と)に角(かく)佐世保海兵団を出、故郷への途についたのだった。

以下略す。

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