巡洋艦 矢矧(ヤハギ) -レイテ島沖海戦日誌(昭和19年10月)

昭和18年駆逐艦で遭難後、10月中、佐世保に帰り、約7ヶ月、海兵団勤務。19年5月10日、巡洋艦『矢矧』乗組となる。その後、台湾沖海戦、レイテ作戦等に参加、数々の戦果をあげた。当時の記憶をたどり記したのが、この記録である。年月も経て古い記憶故、月日等は略す。

私は昭和19年5月10日『矢矧(やはぎ)』の乗組員となる。

当時、本艦がまだ佐世保・第二ドックで新造され、艤装(ぎそう)中であった。その後、約3ヶ月の艤装工事も終わり、いよいよ試運転。海軍側と工廠(こうしょう)側立会いで佐世保港を出、玄海灘(げんかいなだ)で全速運転。

<軽巡洋艦『矢矧』、全長174m、全幅15m>

その当時、日本海軍の一番早い速力は駆逐艦で、中でも 最新型のA級月型である。時速38節(ノット)<時速70km>であった。『矢矧』の試運転全速力が45節(ノット)<時速83km>であった。乗組員一同、工廠(こうしょう)側もビックリした。エピソードの持主が、我が巡洋艦『矢矧(やはぎ)』である。やがて、海軍側に引渡された。我々は毎日毎日新兵器搭載のこの艦で猛練習が始まった。

そして、或る日、○○前線に出動したのである。

その後、南方○○基地で訓練また訓練。そして、我が南方(なんぽう)方面(ほうめん)主力艦隊はシンガポール沖に集結していた。戦艦「大和」「武蔵(むさし)」をはじめ、あらゆる艦種、総勢130隻との話であった(後日知る)。

兎(と)に角(かく)、大艦隊の集結だ。当時、内地では戦雲急を告げ、東京が空襲されたとのデマまで飛ぶ有様。日本艦隊は何をしているのかと、国民が不安がったとか。最早(もはや)この うわさを聞き流してはいられない。

我が艦隊は堂々、台湾沖へと出動する。

当時、敵の艦船部隊も太平洋上に出撃しており、点在する南洋の各島々に上陸又(また)は攻撃を加え、本土爆撃をねらっていたと言う。我が艦隊もこれを迎え撃つ可(べ)く出動したのだ。

或る日、我が艦隊は、ボルネオ島北方を航行中である。南方の夜も明けて朝食前であった。『矢矧(やはぎ)』の前方二千メートルを前進する一等巡洋艦「摩耶」「鳥海」の2隻が、突然、魚雷命中、大爆音が起った。黒煙物凄く炎上している。直(ただ)ちに全員戦闘配置についた。全く油断していたのだ。近くを護衛していた駆逐艦が早くも全速で敵潜水艦を探策、爆雷(ばくらい)攻撃<魚雷攻撃>したが戦果不明。2隻の巡洋艦が共に海の藻くずと消えて行った。多くの精鋭兵と共に誠に残念至極だ。我が方の被害甚大(じんだい)である。

その後、我が艦隊は、フィリピン、マニラ港で燃料を補給後、レイテ湾攻撃部隊と台湾沖出撃部隊<註>の2つに別れ、我々は太平洋海域に向った。

途中、フィリピンの峡海を通過する時である。敵の艦載(かんさい)機(き)30機の襲撃を受け、戦艦「武蔵」が集中攻撃を受けた。この海峡は巾(はば)2百米(メートル)程(ほど)、その峡海を通過中、敵機約30機が「大和」「武蔵」に襲いかかって来た。実に突然であった。というのは、海峡のため視(み)透(とお)しが効かない。右側の山影より突如、撃ってきた。そして頭上から爆弾投下、我が方はなすすべもない。特に「大和」「武蔵」に集中攻撃である。

両艦の高角砲、機銃が、火樽の如く全身より火を噴いた。でも如何せん、狭海のため体をかわす余裕がない。数発の直撃弾を受け「武蔵」は炎上した。敵機は尚も集中攻撃、敵機10数機が落下したのを見た。30分間程の出来事である。戦艦「武蔵」はとうとう沈没した。我が海軍の自慢のひとつ、不沈艦といわれた戦艦「大和」「武蔵」、その1隻が早くも敵機のエジキとなったのだ。そして乗組(のりくみ)2千人のうち大多数が戦死した。一部は駆逐艦が 救助した。でも、我々の目的は太平洋上にある敵の大艦隊撃減にある。士気を鼓舞(こぶ)し、太平洋に出た。

未だ敵艦見えず、我が艦隊は戦艦「大和」を中心に「金剛」「長門」等………百何十隻の部隊だ。正(まさ)に威風堂々(いふうどうどう)、太平洋上狭(せま)しと快進撃、敵艦船部隊を求めて突進した。その時の光景は実に見事であった。これぞ海の男が体験できる力強き勇姿である。どの方向へ進んでいるのか、サッパリ分からん。太平洋の只中(ただなか)である。

数時間がすぎた。と突如、敵弾が我が『矢矧』の右側100メートル程(ほど)の海面で大きな水柱をあげた。しかし、敵艦はまだ見えない。2発3発次々に水柱の物凄さ。でも我が方は、まだ1発も発砲していない。私は艦橋近くで待機していた。

その時、砲術長の声「1、2番砲、発砲用意……」と命令した。そして、つづいて「魚雷発射用意………」の号令。でも敵艦見えず、艦橋では電波探知器で敵の位置は分かっているのか。敵弾が飛来する距離からみて、遠くではない様だ。敵弾はますます数を増し、我が艦隊の右に左に物凄い水柱を立てている。我が方からは未だ発砲しない。

その時、戦艦「大和」の45センチ砲(3連装)が一斉(いっせい)に火を噴いた。そして重巡の主砲も火蓋(ひぶた)を切った。凄(すさ)まじい光景である。全艦全速力だ。敵は何処(いずこ)、未だ見えない。

すると、本艦の魚雷が発射された。「敵艦見ゆ」見張員の声だ。「左15度、8千米(メートル)」という。

その時、敵の駆逐艦が2隻、左前方に現れた。その艦からは、一斉(いっせい)に我が『矢矧(やはぎ)』を目指して発砲している。敵弾は右に左に水柱の凄まじさ。我が『矢矧』はまるで水柱の中だ。

<欄外の記録>

敵の駆逐艦は4千トン級、大砲も20センチ砲(3連装)9門を搭載している。『矢矧』は軽巡洋艦ながら15センチ砲(2連装)6門であった。射程距離も20センチ砲で1万メートル、15センチ砲で8千~5千メートルである(命中率からいう)。

測的員の報告距離は7千メートル、本艦は未だ発砲しない。距離6千メートル、その時はじめて「射方始メ」の号令一下、我が15センチ砲4門が同時に火を噴いた。測的員が「敵1番艦に初弾命中」と報告した。と同時に敵の発砲がピタリと止まった。2弾、3弾と発砲した。

「敵艦炎上」と見張員の声。

「射方止め」の号令。

2隻の敵駆逐艦は黒煙につつまれていた。すると、1隻から、ボートが降ろされているのが見えた。乗組員が  ボートに乗り移っている。他の一隻は沈没してしまった。本艦はその方には目もくれず、全速力で突進している。まだまだ敵の主力艦隊が近くにいるのであろう。しかし、その後も敵艦は1隻も見えなかった。最早(もはや)戦闘は終ったのか全艦発砲していない。只(ただ)前進をつづけているのみだ。

敵艦は殆ど沈んだという。その時の戦果は空母2隻、戦艦1隻、巡洋艦4隻、駆逐艦4隻とのことであった。でも、我が方も巡洋艦2隻、駆逐艦4隻等の損害を受けていた。でも、戦闘は我方の勝利である。

本艦も至近弾を受け、前甲板(まえかんぱん)に大穴があき、15度程(ほど)斜いた。でも航行には支障ないとのこと。また敵機の来襲で機銃員等40名程の犠牲者を出した。

戦いすんで、日が暮れて、我が艦隊は沖縄へと直行した。その間、戦死者を水葬するので、全員上(じょう)甲板(かんぱん)に集合、艦長以下整列、毛布にくるみ、太平洋上へと葬った。この時は本当に涙が出た………。

後で気がついたのだが『矢矧(やはぎ)』の上甲板は文字通りの 血の池であった。私はこれを見て、これが本当にこの世の地獄絵だと思った。

その夜は沖縄で仮泊、翌早朝、艦隊を再編成し、我が『矢矧』は「大和」「長門」等を護衛して、内地に帰ってきた。これ、昭和19年8月○日の台湾沖海戦である。

<大澤氏の欄外のメモ>戦艦「大和」「長門」「金剛」等を護衛して帰る途中、沖縄と台湾の間を通過中、敵潜水艦の襲撃を受け、「金剛」が沈没した。真夜中の事であった。

その後、内地で艦隊整備(呉軍港)中も敵機来襲。我等上陸中で、空襲警報発令。急ぎ帰艦する。呉港在泊中の巡洋艦「若葉」等が港内で撃沈された。

この頃であったと思う。敵潜水艦からの怪電波が流れ、日本海軍の誇る不沈艦「大和」と快速艦『矢矧』を沈めたら戦争は終わるとのデマ宣伝をしたという。

それから数日後、呉港外、柱島に碇泊中の戦艦「奥(む)陸(つ)」が原因不明の自爆を起し沈没するという事件があった。『矢矧(やはぎ)』は、その後、急ぎ佐世保に直行、次の○○作戦に備え、艦体整備にかかる。

その頃、敵艦船部隊は沖縄に上陸、各地で激戦が展開されていた。この頃は、日本海軍の主力艦隊は各所で打撃を受け、残り艦船も少なくなっていたのである。最早(もはや)、敗戦の色濃い頃であった。

本土の主要都市は次々爆撃され、至(いた)る所が焼け野原となり、国民は本土決戦に備え、竹槍のケイコ、女子供に至るまで決死の覚悟であった。しかし、大本営の発表は只(ただ)皇軍の戦果のみ。国民の戦意を鼓舞(こぶ)していた。

そして、昭和20年の正月を迎えた。

戦火は益々急を告げる頃である。

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