葛城(カツラギ) -日米開戦日誌(昭和16年11月)

日米開戦日誌(昭和16年11月)

軍艦葛城(かつらぎ)に乗(のり)組中(くみちゅう) 

日米開戦1ヶ月程(ほど)前のことである。昭和16年11月 10日、台湾高雄を出港して約1時間、我が航空艦隊の大演習があった。日本海軍の誇りとする水上爆撃機、大空(おおぞら)狭(せま)しと飛び交っている。勿論(もちろん)、本艦が仮想敵艦になり、目標となっていた。水上爆撃機は我が『葛城(かつらぎ)』目がけて、次々と魚雷を発射してくる。又(また)、我々も全力を挙(あ)げて対空戦闘に応ずる。この日は天気晴朗にして、やや波高く、我々海兵の記念すべき日であった。この演習は実戦さながらで強く印象に残った。

というのは、我が海軍の雷撃(らいげき)任務である。巨大な魚雷 (重量約2トン)を軽々しく翼下に抱き、遥か彼方(かなた)(実戦の時は約3千米(メートル)まで接近する)より水上すれすれに飛来(ひらい)し、発射すれば見事、本艦の下を深く、水泡もものすごく通過する。少しでも深度の調節をあやまれば一大事である。数十機の雷撃機は入れ替わり、立ち替わり攻撃して来る。実戦なら戦果は確実である。約5時間の猛訓練も無事終了した。

それから約1ヶ月後、本艦は高雄東港航空隊付きとなって、パラオ島(註)に向け出発したのである。

ここで待機することとなった。その間にも、日米交渉は悪化し、我が海軍艦隊は着々と戦闘準備をつづけていたのである。何年か前から待ちに待ちたる日米開戦は、遂に12月8日午前5時、宣戦布告する事となったのである。事実上、太平洋上で決戦の火蓋(ひぶた)は切られた。

開戦当時、我々はパラオ島に居た。本艦も南方部隊の最前線に在って東空隊の蘭(オランダ領)印(インドシナ)、フィリピン爆撃の準備に手ぬかりはない。多忙多忙の毎日であった。その頃、我が海軍主力艦隊は、米英連合軍の艦船部隊に攻撃を加え、大戦果を治めたとの情報あり。本艦も待ち兼ねていた出動命令が下った。

12月28日午後2時、堂々パラオ島を出港した。目指すはフィリピン南端ダバオ港である。途中昼夜厳重なる警戒の中に、約2昼夜を経(へ)て無事ダバオ港に入港した。 時に30日、午後2時であった。

しかし、我々の入港前、すでに我が航空隊が爆撃し海上部隊も援護射撃で、完全に占領した後であった。艦上から見るダバオ市内は黒煙物凄(ものすご)く、方々に爆撃の跡が残っている。人影も見えない。望遠鏡で見るダバオ市街は実に凄惨(せいさん)そのもの、屍(しかばね)も山の如(ごと)く、家屋(かおく)の散乱した跡は二眼(ふため)と見られない。初めて見る敗戦の跡、この時、特に戦争は敗けてはいけないと強く感じた。そして一層の愛国心を湧(わ)き立たせたのであった。

入港後、我々は武装して、市外○○地に上陸した。敵地捜索のためである。でも敵兵の影はない。市民一人すら 見当たらない。張りつめていた気も一気に抜けてホッとした。そのかわり土民の家畜である鶏、豚など焼残りが沢山いたので、存分に生(い)け捕(ど)りし面白い戦暇の一時(ひととき)であった。

その日、夕食は早速肉又(また)肉の御馳走(ごちそう)である。思えば今頃内地(ないち)に居れば、開戦はしたといえども正月前、楽しい頃である。昭和16年も戦果の中に過ぎ去ろうとしている。 明くれば31日、年越(としこ)しである。本艦も目出度(めでた)く、昭和17年の正月を無事迎えんとしている。

今日<31日>朝から餅つきの準備に忙しかった。午後は みんなで交代・交代で餅つき、真裸(まっぱだか)でふんどし一丁、ねじり鉢巻(はちまき)である。こんな暑い暑い正月は初めてだ。

サァ………餅もできた。夕方から飲めや唄(うた)えの大騒動、久し振りの無礼(ぶれい)行(こう)であった………。

いつしか夜も更けて、明日は正月だ。楽しい夢でもみて、次の戦闘に備えるべく静かにゆりかごの人となった。

明けて正月、全員上(じょう)甲板(かんぱん)に整列、東の空を仰ぎ、君が代を歌った。元旦を寿(ことほ)ぎ、雑煮(ぞうに)を喰い、正月の気分にひたった。愉快な正月であった。

そうしている間にも、どこかで戦闘する兵士もいるのだ。気分も新(あら)た。○○作戦の準備は着々進められていた。正月も去り、又つい先日までのきびしい艦隊勤務が始まった。

1月も早(はや)8日、○○艦隊はダバオに集結し、海軍陸戦隊、水上航空隊、落下傘(らっかさん)部隊と役者は全部揃(そろ)っている。○○ 作戦の準備は完了。翌9日午後2時、本部隊は堂々ダバオを出港した。

途中、最前方を駆逐(くちく)艦(かん)が4隻で警戒、本艦の左右には哨戒(しょうかい)<パトロール>艇(てい)が4隻、後方5千米(メートル)の処に軽(けい)巡洋艦(じゅんようかん)、駆遂艦、又々(またまた)一等巡洋艦等々の勇姿、実に力強い隊形で行く。約二昼夜の航海が続き、明けて1月11日朝の2時(南方は夜明が早い)目的地たる蘭(オランダ)領セレベス島<現インドネシアのスラウェシ島>の北端、メナド、ケマの2ヶ所に暁(あかつき)を期し、陸戦隊が敵前上陸するとの事であった。

この作戦に参加した艦隊は34隻であった。その主力 部隊はメナドに向け攻撃。我が葛城(かつらぎ)を主力とする部隊は 駆遂艦4隻に護衛され、陸戦隊を乗せた「北陸丸」の計6隻で、メナド市の裏側にあるケマ市(小さな町)に向っていた。11日の午後6時頃であった。今日も早い目に夕食をすませ、全員戦闘配置についている。

折柄(おりから)おこる爆音、我等一斉(いっせい)に上空を視(み)た。正(まさ)しく敵の  中型爆撃機3機がすでに我が上空にあった。見張員の叫びに従い、13センチ機銃が一斉(いっせい)に火を噴いた。他の艦も発砲している。一瞬にして阿修羅(あしゅら)の戦場と化した。敵もさるもの4千米(メートル)程に低空し、次々と爆弾投下。でも中々命中しない。本艦もジグザク運動で体(たい)をかわし、必死の抵抗である。数分が過ぎた。敵機も遠ざかって行った。右に左に物凄い水柱を残して……。周囲を見たが被害のあった様子もない。全艦無事である。ホッとした。

太陽も今に西海へ没せんとする黄昏(たそがれ)時であった。みんなで無事を喜び合った。初めてくぐった弾の下であった。 まだまだ油断はできない。いつ何時、敵が襲ってくるかもわからない。その夜も厳重な警戒の中に続航する。その夜は変ったこともなく、夜も明けんとする午前2時頃(1月12日)、ケマの港外に到着した。上陸準備も完了している。

午前4時頃、我が陸戦隊は上陸を敢行したのである。 敵は知らないのか、又(また)は最早(もはや)その他に居ないのか、一発の銃声すら聞えない。すでに遁走(とんそう)した後だろうか。とその時、遥か向うの方で火柱が上がったのだ。敵か見方か……油タンクに火をつけたものらしい。未だ銃声は聞こえない。その間に陸戦隊の武器弾薬、糧食等一切(いっさい)の陸揚(りくあげ)を終わった。矢張(やは)り敵は居なかった様である。

夜も明けた。陸上を見ても交戦している様子もない。静かである。完全に占領している様子。朝食をすまし、艦(ふね)を港外に移動した。と、その時(6時頃)「敵機右20度」と言う見張員の声、総員戦闘配置に着いた。

早くも敵機は頭上にあった。一斉に機銃が火をはいた。高角砲もうなる。第二回目の対戦だ。敵も3機、急降下で爆弾を投下していく。でも当たらない。しかし、本当に近くで水柱が立つ。何米(メートル)の違いである。全艦船、撃って、撃って、撃ちまくる。こちらの銃弾も当たらないのか、敵機は3機とも飛び交っている。本艦も数回水柱で上甲板(じょうかんぱん)はビショヌレだ。我々も頭から水をかむりヌレている。でも、命中弾でないから被害はない。その内に敵の影も見えなくなっていた。ホッとした………。またも  無事だった。

これで数回、生死の境を通り抜けたのだ。これから先、何回あるか分からないのだ。今はもう運を天にまかして、只(ただ)生命ある限り戦うのみである。その日から連続3日間、毎日毎日敵襲に遭ったが別に被害は無かった。

3日目の事だ。午後2時頃、又(また)も飛来した中型機3機、本艦上空より爆弾投下してきた。勿論、対空砲火も物凄く応戦した。折(おり)も折(おり)、どこからともなく味方戦闘機2機が襲いかかったのだ。これを知った敵機、雲間(くもま)を利して去らんとするを、後ろから追射ち、空中戦を展開した。艦船からの対空砲火はピタリと止まった。この時の味方の戦闘機は我が海軍が誇りとする零戦、つまり紀元二千六百年を記念しできた零(ぜろ)式戦闘機である。

我が戦闘機は上になり下になり、数分、ザッと1万米(メートル)もあろうか、その上空での空中戦である。すると敵1機が黒煙ものすごく落ちて行った。と又(また)1機パッと黒煙に包まれた。でも水平飛行している。尚も追いかけて行く  2機の姿が雲の中にかくれてしまったのだ。その後、また1機、空中分解して海面に消えるのがかすかに見えた。 残る1機は頓走(とんそう)したのか墜落したのか分からなかった。が、2機は完全に海の藻くずと消えたのだった。私は思わず万歳を叫んだ。それからは敵も来なかった。

本艦も今無事、任務を果たし、14日午前11時ケマを出港、途中も無事16日午後1時頃ダバオに入港した。

その後4日間の碇泊、20日、又も東空部隊を乗せ、午前0時ダバオ出港、約1昼夜航海し、セレベス島の北端、バンカに寄港した。少々荷物を陸揚(りくあげ)後、直(ただち)に出港する。  またもメナドに向うとのことだ。

その日遅く、メナドに入港した。約3日の碇泊という。その間、乗務員は交代で上陸許可。市内の情況を見て廻ったのだ。ここは、我が海軍航空部隊が落下傘で奇襲、実弾なしで占領したとのことだった。しかし、後で米(こめ)の倉庫、ガソリンタンク等に火をつけ焼き払ったとかで黒煙立ち昇(のぼ)り、悪臭ただよい、無気味であった。でも市街はそのまま焼けてなく、街並はきれいであった。住民も1人として影無く物静かだ。でも店内は大分荒らされていた。

時計店、文具店、食料品店、衣料店等沢山あったが、どの店もめちゃめちゃである。落下傘部隊が荒し廻ったとのことであった。我々が上陸した時は、目ぼしいものは何ひとつない。でも一軒の文具店で金ペンを見付け持ち帰った。長い間使用したが、これも後の戦闘で太平洋の藻(も)くずとなった。余談である………。

こうして我が皇軍の電撃作戦は着々と戦果を収めていったのである。在泊中の任務も終わり、23日無事出港。

その後、約2昼夜の航海も変った事なく、25日又々(またまた)  ケマに入港した。直ぐに航空部隊の物件の揚陸作業にかかり忙しかった。この時は本艦だけの単独行動であった。 その日、丁度午後2時頃である。突然大爆音がした。我々は、又々敵機だと思った。我先にと戦闘配置についた。上空を見上げたが敵機も見えない。さっきの音響と共に、本艦の500米(メートル)程(ほど)先方に碇泊していた金山丸が前方 半分海中に沈んでいる。乗務員の影が二、三動いて見えた。それより敵はいづこと探したが何も見当たらない。

10分程(ほど)が過ぎた、と思ったときだ。見張員が「右20度、魚雷………」と叫んだ。その方向を見ると、ハッキリ本艦目指して魚雷が走ってくる。それはそれは真白い尾を引いて、スワ………一大事。本艦は錨(いかり)を入れたまま、艦橋(かんきょう)の見張員のひとりが、とっさに面舵(おもかじ)一杯に操舵(そうだ)したという  (後で知った)。

まさしく敵潜水艦の雷撃である。グングン魚雷は近づいてくる。私は最後部15センチ砲の二番砲手。艦が面舵をとったので、魚雷は自分たちの方に真一文字だ。最早(もはや)  数10メートルの距離だ!私は思わずアッ………と叫ぶところだった。というのは、艦がぐーっと左に動くのを察知した。魚雷は目の前だ。10メートルと離れていなかったと思う。本艦の遥か後方に流れて行くのをハッキリと見たのだ。そして2千メートル後方の砂浜に飛び上がっているのを見た。

ホントウに一瞬の出来事だった。ア……と、みながため息をもらしたものだった。「よかった、よかった」という砲術長の言葉が未だウツロに聞こえる……。本当に天運であると思った。本艦命中をまぬがれた一瞬だった。

後でボートを降し、その魚雷を見に行った。実に大きなものであった。直径90センチと言う。日本にはその頃そんな大きな魚雷はなかった。日本のは一等潜水艦が持つのが75センチである。雷撃機用が45~50センチである。あんな大きなのが一発命中すれば本艦とて轟沈(ごうちん)するところであった。この時の潜水艦はその後不明。撃沈することが出来なかった。残念至極である。

その後、金山丸は沈没。船長は制止する部下を避難させ、自分は正装(せいそう)し割腹(かっぷく)自殺していたとか、後日の話であった。

その後も数回、敵機の来襲があったが、本艦も一寸(ちょっと)した至近弾(しきんだん)の被害だけで済み、応急処置で任務遂行。志気旺盛、無事内地帰還の途についた。以下略す。

『葛城』退艦後の記録である

私は、昭和17年7月12日、横須賀海軍砲術学校に 入学する事になった。本艦はシンガポールに碇泊中。

7月12日、朝食をすまし『葛城』を退艦した。と同時に、シンガポール、ジョホール <シンガポールとは海峡を挟(はさ)んで対岸> に停泊中の「香椎(かしい)」に便乗する。同14日午前中に出港、シンガポール(当時、昭南島といっていた)東側にある昭南港に入港、即時「香椎」を降り、基地隊に仮入隊となる。約20日間の在隊。その間(かん)、南方特有の高熱病デング熱にかかり、10日程病院に入る。

そして、8月5日、同隊を出て即日「北安丸」に便乗した。翌日の6日午前11時、昭南港を出、約2昼夜の航海を経て、8日午後3時、南洋佛(フランス)領印度支那(インドシナ)(今のベトナム)、サイゴン<現ホーチミン>に入港した。同日、夕食後 「北安丸」を降り、陸上警備隊へ仮入隊となる。

4日間の在隊、同13日の夕食後、「北安丸」に再便乗となる。明(あくる)14日午後8時、西貢(サイゴン)<サイゴン>を出港、河口(かこう)に3日間碇泊した。同17日早朝出港、約6昼夜の航海を経(へ)て、22日午後4時、台湾の高雄に入港す。2日在泊、24日正午、同港を出、約6昼夜の遠航を続け、30日 午後2時、無事、佐世保に入港した。

しかし、当日は港内に碇泊、上陸できない。便乗者の検便等あり終わったのが6時半頃。その後、丸1日の仮泊、明けて9月1日正午、錨地(びょうち)に向い、直ちに退船、上陸した。

でもこれから税関の点検があるとのこと。4時頃終わった。私の横須賀砲術学校入学は9月1日である。未(いま)だ  佐世保で、まごまごしているのだ。しかし、如何(いかん)ともしがたく、4時半はじめて外出を許された。私は早速、佐世保駅へと急行したが、その頃には丁度東京行の汽車がない。夜中の1時発、門司(もじ)行に乗ることにした。翌9月2日、朝7時50分門司着、9時20分発の山陰線廻りで、兎(と)に角(かく) 3日昼頃、無事横須賀(よこすか)に到着した。3日の遅れ入学となった。

きびしい学校教練が始まった。長い、長い4ヶ月間であった。その4ヶ月の学校教育を終え、佐世保に帰る。佐世保での在団4ヶ月後、<昭和18年>5月15日、駆遂艦『江風(かわかぜ)』の乗組(のりくみ)となる。

<大澤氏の欄外の記録>

私が昭和17年7月12日、<横須賀砲術学校に入学するために>シンガポールで『葛城』を退艦した後、同艦はシンガポールを出港し、スマトラ島に向う途中、敵潜水艦の魚雷で沈没したとの噂をきいた。乗務員も過半数が戦死したとのことであった。私は奇しくも一命をとりとめたのである。

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