解説、あとがき

金光教豊中南教会 水野真信

大澤栄一氏は大正9年9月21日、四国の西の端、愛媛県北宇和(きたうわ)郡遊子(ゆす)村津之浦に生まれた。

終戦後は、昭和21年9月、佐世保第二復員局を退官。同月、静子夫人と結婚。昭和22年、地元宇和海(うわうみ)村役場の書記となり、昭和29年に助役。昭和33年、町村合併の為、退職。大阪へ転居した。戦争で身体(特に肺)を痛め、仕事がこたえたという。昭和54年12月21日、59歳3ヶ月で帰幽した。

さて、これから大澤氏の体験記を振り返ってみたい。

その前にまず、軍事用語から簡単に説明する。

「魚雷(ぎょらい)」は、海中を航行するスクリューの付いた爆弾である。砲弾が艦上の戦闘能力を奪うのに対し、魚雷は船底(ふなぞこ)に穴を開け、沈没させることを目的としている。

同じ爆弾が艦に当たっても、空気中の場合は、爆発エネルギーの4分の3が船外へ逃げてしまうが、海中の場合は、破壊力が倍加される。さらに、魚雷に含まれる火薬の量は、砲弾の10倍はある為、その破壊力は凄まじく、魚雷が2発でも当たれば全長100mの船は簡単に沈んでしまう。

なお、魚雷の破壊力がなぜ倍加されるか、関心のある方は、追補(1)P82を参照して頂きたい。

(第二次世界大戦当時、魚雷の一般的な大きさ)

航空機搭載用 駆逐艦搭載用
直径 45cm 61cm
全長 5.3m 9.0m
重量 848kg 2,800kg
炸薬量 235kg 480kg
速度(時間) 78km 96km

続いて、「戦艦(せんかん)」「駆逐(くちく)艦(かん)」「巡洋艦(じゅんようかん)」だが、これら三つをまとめて「軍艦」と呼び、どれも砲台(戦闘能力)を備えているが、その中でもとりわけ艦体が大きく、砲の数・威力とも強大なのが「戦艦」である。

次に、小型・高速で、魚雷を装備しているのが「駆逐艦」。

そして、駆逐艦より大きく、船としての性能が最も優れているのが「巡洋艦」である。

なお、「駆逐艦」は建造費が比較的安いため、数で言えば一番多く、「巡洋艦」は高性能であるため、艦隊の司令部が置かれることもある。

戦艦「大和」 駆逐艦『江風(かわかぜ)』 巡洋艦『矢矧(やはぎ)』
全長 263m 111m 174m
乗員数 3,332名 226名 730名

ついでに、「連合艦隊」は日本海軍であり、「連合軍」は主に、米・英・蘭・豪・ニュージーランド軍を指す。

(1)日米開戦

大澤氏が佐世保海兵団に入団したのは昭和16年1月、わずか20才4ヶ月の時であった。入団後4ヶ月間、新兵の教育を受け、同年4月より軍艦葛城(かつらぎ)に乗り組んだ。この軍艦葛城は、正式には外国航路用の大型船を擬装(ぎそう)した特設航空機運搬艦『葛城(かつらぎ)丸』である。

日米開戦後、大澤氏はフィリピンのダバオ、インドネシアのメナドへの、航空機・物資の輸送に従事した。この地域を日本軍が押さえた理由は、当時オランダ領であったジャワ島、スマトラ島で産出される石油や天然ゴムの安全輸送の確保にあった。昭和17年1月、メナドの近くのケマ港で物資を下(おろ)していると、近くの「金山丸」が敵の魚雷で撃沈。10分後、8千トン級の『葛(かつら)城(ぎ)丸』にも直径90センチの魚雷が迫(せま)るが、艦橋(かんきょう)見張員の機転で、間一髪(かんいっぱつ)命中はまぬがれた。

艦橋とは、船の一番高い所にあり、艦長や操舵士(船を操縦する人)のいる所である。『葛城丸』の艦橋の高さは、恐らくビルの8階ぐらいはあろう。見張員(みはりいん)はその位置から時速80kmで海中を航行する一本の魚雷を発見し、しかも投錨(とうびょう)中にもかかわらず魚雷をかわしている。

この時、魚雷をかわせたのは、①近くの金山丸が先に撃沈し、警戒していたこと、②海が荒れていなかったこと、③文字通り見張員がすばやく機転をきかし操舵したこと等が幸いした。

その後、大澤氏はインドネシアの海域を主に、タイ、マレーシア、日本、台湾と航海し、7月には軍命により『葛城丸』を退艦。横須賀で4ヶ月間、砲兵の訓練を受けた。

『葛城丸』は大澤氏が退艦して3ヵ月後の10月1日、午前5時36分、敵潜水艦の魚雷3本を受けて沈没。大澤氏は『葛城丸』で二度命拾(いのちびろ)いしている。

(2)駆逐艦『江風(かわかぜ)』、ソロモン諸島で沈没

砲兵の訓練を受けた大澤氏は、昭和18年5月から 海軍二等兵曹(へいそう)として、駆遂艦『江風(かわかぜ)』の乗組員(のりくみいん)となり、ソロモン諸島へ派遣された。日本海軍の兵士下士官の階級は、昭和17年以降、上から、上等兵曹、一等兵曹、二等兵曹、兵長、上等兵、一等兵、二等兵である。二等兵曹は下士官にあたり、部下数名から10名の指揮にあたる。

さて、大澤氏がソロモン諸島へ派遣された背景について触れる。日本軍は、昭和17年1月、ソロモン諸島の北西、ラバウルに日本兵9万人を駐留させる大要塞を築いた。この地域の戦略的な目的は、アメリカとオーストラリアとの交通遮断にあり、オーストラリアの孤立を目的とした。

これに対して、アメリカ・オーストラリアの連合軍は、ラバウルへの直接攻撃ではなく、周囲から攻める戦略をとった。この為、ラバウルの東側にあたるソロモン諸島は、太平洋戦争有数の激戦区となった。

『葛城丸』が敵潜水艦に沈められたのはこの海域で、上の地図中ショートランド島からラバウルへ航空部隊4百名を輸送中のことであった。また、2万5千人が戦死・餓死・病死したガダルカナル島もこのソロモン諸島にあり、山本五十六(いそろく)連合艦隊司令長官が戦死したのも同諸島ブーゲンビル島上空である。

時間で整理すると次のようになる。

昭和17年1月 日本軍、ラバウルを占領
昭和17年8月 ガダルカナル島、戦闘開始
昭和17年10月 葛城丸の沈没
昭和18年2月 ガダルカナル島、日本軍敗退。
昭和18年4月 山本五十六、戦死。

以上、読者に馴染みのある事例を列記したが、ガダルカナル以後は連合軍の優勢が確立しつつあった。

この流れで、昭和18年8月3日、連合軍(米・豪・ニュージーランド)がソロモン諸島ニュージョージア島の飛行場を占領した為、東側にあるコロンバンガラ島の日本軍飛行場が無力化する恐れが出てきた。そこで、ラバウル基地から乗組員(のりくみいん)700名、陸兵940名、物資50トンを載せ、コロンバンガラ島へ向かったのが4隻の駆逐艦「萩風(はぎかぜ)」「嵐(あらし)」『江風(かわかぜ)』「時雨(しぐれ)」である。時、8月6日の深夜である。

しかし、翌8月7日、アメリカ軍の偵察機は早くもこの動きを発見。その夜、日本側は、敵の駆逐艦6隻に待ち伏せされた。そして、到着まであとわずかという時に、敵の夜間レーダーに捉(とら)えられ、先頭を航行していた「萩風(はぎかぜ)」の見張員(みはりいん)が言葉にならないような声を発した時には、無数の魚雷が横一列に迫り、「萩風」には2本が命中、大爆発を起こした。これが大澤氏の目撃したときの状況である。

『江風(かわかぜ)』では、魚雷が大澤氏の足元で爆発し、大澤氏は左腕から左脚にかけて火傷(やけど)を負ったが、重症はまぬがれた。海に飛び込むと、艦(ふね)が沈む時の大きな渦に巻き込まれ、数分間海中に引きずりこまれた。通常、殆(ほとん)どの兵士がこの渦(うず)に巻き込まれて海底に沈むのだが、大澤氏は意識を失う寸前で奇跡的に海面に上がっている。大澤氏が助かったのは、砲撃手で甲板(かんぱん)にいた為、早めに逃げることができたこと、班長の退艦指示が早かったこと等も幸いしている。

沈没後の大澤氏は、徹夜で飲まず食わず、島影(しまかげ)ひとつ 見えない敵の海域を、たった一人、板切れ一枚で漂った。「萩風(はぎかぜ)」の生還者(津田貞義氏)によると、海水は冷たく、遭難の翌日には、戦友が力尽きて海底に沈んでいったという。大澤氏は丸一昼夜 (静子夫人は40時間漂流したと聞いている) を経(へ)て、偶然にも島へ漂着できた。もし、漂着があと3時間でも遅れれば、力尽きて海底に沈んだかもしれず、また重症なら板につかまることさえできなかったはずである。そして何より、サメの多い、敵の海域で、よく海流が生きて島まで運んだと思うと不思議でならない。

大澤氏が漂着した島(ソロモン諸島のベララベラ島)には、300名ほどの遭難兵がおり、この中には駆逐艦4隻の司令官(杉浦大佐)や『萩風』の艦長もいた。司令官のそばにいた津田貞義氏の記録と大澤氏の記録、そして『The Pacific War Online Encyclopedia』とアメリカ海兵隊の記録(英文)などから、大澤氏滞在中の足取りを追ってみる。

ベララベラ島は深いジャングルに覆われ、長さ42km、幅19km。標高400~800mの山がいくつもあり、歩行は困難を極めた。僅(わず)か10mの歩行に数時間を要することが何度もあるというから想像がつくであろう。

この深いジャングルのため、大澤氏には知るよしもなかったが、実は大澤氏が8月7日に漂着し、海岸線を時計回りに通過した直後と思われる8月12日から17日にかけて、アメリカ・ニュージーランドの連合軍6,505人が、この島の南東部に上陸している。

大澤氏の目の前で、何人もの仲間が銃撃された背景には、このような敵の上陸があり、しかも大澤氏たちの居場所は、連合軍6千の拠点からわずか12~15kmしか離れていなかったのである。

大澤氏ら遭難兵たちは、食糧を求めて島を移動し、食べられるものは何でも食べたという。大澤氏の「手の火傷(やけど)は化膿(かのう)して……自分の手かと疑う程(ほど)、変りはて…」という 箇所だが、静子夫人によると、痛みを覚えたときには蛆虫(うじむし)がわき、慌(あわ)てて海水で洗ったという。

大澤氏が島を脱出したのは、漂着して17日目の8月24日。そして、9月14日には、島の北東部で連合軍6千と日本の守備兵6百人(←遭難兵とは別)が交戦し、日本側は多勢に無勢で、島の北西部に追いやられ、10月6日、同島を撤退している。

なお、大澤氏が遭遇した偵察隊52名の任務は、上陸した6千の敵情視察のほか、遭難兵の救出もあったことを付け加えておきたい。

大澤氏はこの島でも度重なる幸運が続いた。

漂着後、現住民に助けられたが、場所がフィリピンであれば間違いなく殺されていたであろう。連合軍(米・豪・ニュージーランド)との遭遇も、ちょっとした時間のズレと、深いジャングルのおかげで避(さ)けられた。島の面積(長さ42km、幅19km)と深いジャングルを考えると、ラバウルからの偵察隊と遭遇できたのはほぼ奇跡に近いが、逆に、敵6千の基地から近かったから偵察隊と遭遇できたとも言える。敵の魚雷艇が警戒している海域で、脱出できたのも幸運であった。そして、約3百名の遭難兵のうち、救助艇に乗れたのは大澤氏を含め約2百名あまり。残りはジャングルを先へ進んだり、はぐれたりして、救助艇の来ることさえ知らなかった。大澤氏ほか遭難兵の移動は「萩風」の艦長が腕の方位磁石で導いていたのである。

ベララベラ島から帰国した大澤氏は、半年後の昭和19年5月、軽巡洋艦(じゅんようかん)『矢矧(やはぎ)』の乗組員となる。遭難記だけでも立派な一つの物語になるが、大澤氏の体験記はさらに続く。

(3)レイテ島沖海戦

大澤氏が軽(けい)巡洋艦(じゅんようかん)『矢矧(やはぎ)』の乗組員となって2ヵ月後の昭和19年7月には、絶対国防圏であるマリアナ諸島のサイパンが陥落した。この防衛線が突破されたことで、本土が爆撃の危険にさらされ、東条英機内閣はこの責任を取って総辞職した。

サイパンに続き、もしフィリピンまで奪還されると、南方資源の安全輸送が確保できなくなるため、日本軍は陸海(りくかい)総力を挙げてフィリピンの防衛にあたった。昭和19年10月のことである。

決戦の舞台がレイテ島になった理由、および僅か11ヶ月の間(あいだ)、レイテ島だけで8万人が戦死した経緯(いきさつ)については「追補(2)レイテ島の戦い」(P84)を参照して頂きたい。

レイテ作戦の目的は、フィリピン中南部(特にレイテ島)に上陸しているアメリカ軍の殲滅(せんめつ)であった。レイテ湾突入に際し、日本海軍は4つの部隊に分けた。

まず、航空部隊(小沢中将)をルソン島の北東から攻めさせ、あたかも日本の主力艦隊と見せかけて敵をレイテ島から引き離そうとした。これが大澤氏の言う台湾沖攻撃部隊である(P37参照)。

一方、主力となる栗田(くりた)艦隊(大澤氏は栗田艦隊に所属)はレイテ島の北方から、西村艦隊と志摩(しま)艦隊は南方から 航行し、レイテ湾で合流する計画であった。

しかし、栗田艦隊はレイテ湾手前で引き返し、西村艦隊の後を追った志摩艦隊も途中で引き返した。結果、西村艦隊は単独、レイテ湾に突入した。(上の地図参照)

迎え撃つ連合軍の戦力は、マッカーサー率いる第7艦隊だけで、その兵力16万5千人。攻撃戦艦157隻に輸送船も含めると計734隻。

<戦力の比較>

日本軍 連合軍
空母 4隻 157隻
戦艦 9隻
巡洋艦 14隻
駆逐艦 36隻
魚雷艇・潜水艦 0隻

結果、敵の圧倒的な戦力の前に、日本海軍は袋叩きに遭い、この3日間の海戦で失った軍艦は、航空母艦4隻、戦艦3隻、巡洋艦6隻、駆逐艦11隻。戦死者は7,475名にのぼる。

単独レイテ湾に突入した7隻の西村艦隊は、敵の軍艦79隻、航空機180機に待ち伏せされ、駆逐艦「時雨(しぐれ)」を残して6隻が沈没。全滅した。

何事にも鉄則というものがあり、戦争における鉄則は、攻撃は必ずまとまって一気に行い、戦力の逐次(ちくじ)投入は絶対にしてはならないのだが、このとき西村艦隊は、粟田艦隊とレイテ湾で合流することを約束していた為、結果的に単独で突入した。

また、物事の成否は、意思の疎通がどれだけ正確に図られるかで大きく左右されるが、このときは艦隊同士の連絡が全くと言っていいほど取れていなかった。無線が島に邪魔されたのかもしれない。

そのため、志摩艦隊は戦況不明で引き返し、さらに栗田艦隊も3日間敵と交戦したが、結局、目的地のレイテ湾には突入せず、引き返している。

大澤氏は栗田(くりた)艦隊に属していた。33隻率(ひき)いる栗田艦隊は、沈没8隻、大破1隻、うち戦艦「武蔵(むさし)」まで失った。

『矢矧(やはぎ)』は沈没こそまぬがれたものの、海戦の二日目には敵艦載機(かんさいき)の度重(たびかさ)なる急降下爆撃に遭い、右舷(うげん)艦首の水面すぐ上に直径4m、その付近の舷側(げんそく)に大小無数の破(は)口(こう)をあけられ、浸水の危機に瀕した。しかし、応急指揮官が十数時間不眠不休で修理を行い、海戦の三日目にのぞむことができた。これが大澤氏の記録する「本艦も至近弾を受け、前甲板に大穴があき、15度程斜いた」時の状況である。

『矢矧(やはぎ)』は、翌三日目も航空機による凄(すさ)まじい機銃(きじゅう)掃射(そうしゃ)を浴び、破損箇所は大小合わせて一千を越えていたという。戦死者47名、重軽傷者97名を出し、艦(ふね)が傾斜するたびに大量の血が右へ左へと流れ、飛び散った肉片と火薬が混ざり、すさましい臭いだったという。これが「上(じょう)甲板(かんぱん)は文字通りの血の池であった……これが本当にこの世の地獄絵だと思った。」という箇所である。大澤氏は被弾の確率の高い砲撃手であったが、ここでも一命は取り留めた。

ここで待ち伏せされた西村艦隊の戦況を一部紹介する。

戦艦「扶桑(ふそう)」(全長205m)は、想像を絶する被害を受け、弾薬庫の爆発により艦体が真っ二つに折れた後、艦首も艦尾も炎上、全艦火だるまとなった。1時間以上浮遊していたにもかかわらず艦長以下1,637名全員が戦死、生存者は1人もいなかった。

同じく戦艦「山城(やましろ)」も爆弾が司令部を直撃し、生存者は2名のみ。この両艦のみで乗組員(のりくみいん)3千余名中、生存者はわずか2名であった。

他の艦でも、米軍に助けられようとした日本兵の多くは自決し、陸に泳ぎついた者も武器を持っていなかったため、現地人ゲリラに殺害された。味方の艦に助けられた兵は、フィリピンの陸戦にまわされ、9割以上が戦死した。

なお、太平洋戦争で最も多くの犠牲者を出したのがフィリピンで、日本兵50万人。特に、レイテ沖海戦のあった昭和19年10月から終戦までの11ヶ月間、日本陸軍だけで32万人が戦死した。そのうち8万人がレイテ島で亡くなっているのだ。

昭和19年10月23~25日のレイテ沖海戦が終わり、『矢矧(やはぎ)』はいったんブルネイの補給基地に向かった。

大澤氏の記録にある「その間、戦死者を水葬するので、全員上(じょう)甲板(かんぱん)に集合、艦長以下整列、毛布にくるみ、太平洋上へと葬った。この時は本当に涙が出た。」これと同じ場面が、一緒に航行した戦艦「長門(ながと)」の兵士も記録しているので紹介したい。

「戦い敗れて帰投(基地に帰ること)する気持は淋しかった。二十六日、水平線に夕日が沈む頃、水葬式を行なった。遺体を後甲板に安置する。髪の毛と爪を取って封筒に入れ遺品として残し、毛布三枚に包み、四十キロ演習弾を抱かせ、五ヶ所を固縛して名札を付け、一体ずつスベリ台からブルーの海に落した。その中で一番哀れだったのは、日の丸に包んだ足首だけの遺体だった。爆弾で体は飛び散り、足だけが残ったのだが、脚(きゃ)絆(はん)(動きやすくするために臑(すね)にまとう布)で五分隊の高橋兵長と判明した。この小さな遺体に涙が流れてならなかった。」

その後、ブルネイの補給基地を出たのが11月15日。『矢矧』を先頭に、「金剛」「大和」「長門」の順で、帰国の途についた。しかし、11月21日午前3時前、台湾の北西約110kmを航行中、激しい嵐のなか、敵潜水艦の魚雷を受け、戦艦「金剛」と駆逐艦「浦風」を失った。

この時、敵の潜水艦は先頭を航行していた『矢矧(やはぎ)』を狙っていたが、より大きな戦艦「金剛」に狙いを変えた。「金剛」は魚雷を受けてから沈没まで逃げる時間があったにもかかわらず、艦長が損害を軽視し、総員退艦の判断も遅れた為、救出されたのはわずか237名。そして艦長以下1,300名が海底に沈んだ。これが大澤氏のP41「大澤氏欄外のメモ」にある「沖縄と台湾の間を通過中、敵潜水艦の襲撃を受け、金剛が沈没した。真夜中…」のことである。

以上が、大澤氏の「レイテ沖海戦日誌」の舞台裏である。

(4)沖縄特攻

いよいよ沖縄特攻である。レイテ沖海戦から帰国して4ヶ月後の、昭和20年3月末、連合軍の大艦隊が沖縄本島沖に集結した。対する日本軍の作戦は、これも今の我々には無茶な話であるが、戦艦「大和」『矢矧』も含め10隻の艦隊を沖縄本島に突入させ、艦(ふね)を座礁させた上で固定砲台として砲撃を行い、弾薬が底をついたら乗員(じょういん)は陸戦部隊として敵に突撃をかけるというものであった。

さらに、この日本海軍最後の艦隊には護衛用の航空機はつけられなかった。戦艦は航空機による攻撃には弱く、護衛用の航空機なしで飛び込むのは自殺行為に等しいのである。

戦局の見通しは、沖縄周辺の制空権、制海権がアメリカ側にある以上、護衛用の航空機なしで沖縄へ到達するのは不可能に近かった。この艦隊の司令官・伊藤整一(せいいち)中将は、「制空権制海権もなしの出撃は、沖縄に到達すべくもなく、それを承知の上で、7千人の部下を犬死させる訳にはいかない」と最後まで反対したが、連合艦隊参謀長・草鹿龍之介中将の「一億総特攻の魁(さきがけ)となって頂きたい」との一言で作戦を承諾した。(←草鹿中将個人は特攻に不同意であった模様)

出撃前、大澤氏も聞いたであろう『矢矧』艦長の訓示を引用する。「長官より興国(こうこく)の荒廃(こうはい)、この一挙(いっきょ)に存ず。各員一層奮励(ふんれい)努力し、以(もっ)て海上特攻隊の本領を発揮せよ。今から沖縄へ向け出撃する。敵艦船の中に突入し、沖縄の海岸に乗り上げ、陸の砲台となり最後まで弾をうちまくり、敵を撃減せん」。大澤氏が最後に臨んだ海戦は、文字通り命を捨てた特攻であった。

日本海軍最後の連合艦隊は、昭和20年4月2日に呉港を出港。4月7日、鹿児島県坊(ぼう)の岬(みさき)沖を航行中、戦艦「大和」(全長263m、幅39m、建造費は当時の国家予算の3%) が、アメリカ航空隊386機による猛攻撃を受けて沈没した。戦艦「大和」の大きさは、JR大阪駅のホームの端(はし)から端(はし)までが約260m、幅は大阪駅のホーム3つに線路4本を入れて約45mであるから、大体(だいたい)想像がつくであろう。

「大和」沈没の12分前、大澤氏の『矢矧(やはぎ)』は、直撃弾12発、魚雷7本を喰らって沈没した。

この海戦で沈んだのは、10隻のうち戦艦「大和」、巡洋艦『矢矧』をはじめ6隻にものぼる。参加兵力は10隻で4,329名、平均年齢は27歳、そして戦死者数は3,721名にものぼった。

大澤氏は、艦(ふね)が爆発した時「しばらくして気が付いた時は泳いでいた」という。通常、爆風や飛んできた破片で即死するところが、大澤氏は海に飛ばされて助かっている。

大澤氏と同じ『矢矧(やはぎ)』の生還者、西 創一郎氏によると、爆弾が頭上に降りかかり「もうこれまでか」と死を覚悟して伏せたら、弾は5m離れた煙突に入り、煙突が二つに割けただけで一命を取り留めたという。伏せた顔を上げると、顔半分と片腕を失った戦友が血まみれになって倒れていた。西氏が海に飛び込むと、海面は厚い重油で覆われていた。この時、重油に火がつかなかったおかげで助かり、さらに木材が浮いていたおかげで、泳げない人が助かったという。

ここで、戦艦「大和」沈没時の状況にも触れておきたい。戦艦「大和」は、航空機からの魚雷9本(米国の記録では約30本。うち8本が左舷に命中)を受け、進行方向へ向かって左側が傾き、そのまま倒れるようにして沈んでいった。艦が左に傾いた時には、落ちまいとする何百人もの乗員が、艦の右側の手すりにしがみついていたが(註)、殆ど助からなかった。艦が沈没する時には、傾いた方向から(下の写真では右側から)、海へ飛び込み、いち早く艦から離れないと渦に巻き込まれるのだ。右舷(うげん)の手すりに、蟻(あり)のようにぶら下がっている兵士たちを見た上官は「あの馬鹿者どもがー、渦に巻き込まれるぞお-」と必死に叫んだが、あの傾きで右から左へいけるわけもなかった。

クロールで必死に泳いでいた3名の兵士は、ザバーッと海底に沈む巨大な煙突の中に飲み込まれていった。

艦から離れて助かった漂流兵には次の悲劇が待ち構えていた。それは、大澤氏が見た「はるか水平線の彼方(かなた)で…一際(ひときわ)大きな火柱が上がった」時、戦艦「大和」は大爆発を起こし、無数の鉄片が空に舞い上がった。鉄片と言っても実際は鉄の塊である。そして、無数の鉄の塊が漂流兵の頭上を直撃した。『矢矧』の生還者によると、ある人は顔が大きくなったかと思うと、頭が真っ二つに裂けそのまま海底に沈んだ。またある人は鉄片が直撃してそのまま静かに沈み、またある人は落ちてきた鉄片で手足が切断され、おぼれて亡くなったという。

鉄片の後は、大澤氏の記録する通り、敵機が漂流兵目がけて機銃掃射をし、さらにここでも兵士が亡くなった。

話を『矢矧(やはぎ)』に戻す。

『矢矧(やはぎ)』は午後2時05分に沈没。

『矢矧』の漂流兵たちは「4月初旬の水温の低い中、数時間漂流し、日が沈みかかった時には、まさに絶望した」という。そして、周囲が薄暗くなってきたまさにその時、「正(まさ)に天の助けか、水平線上に艦の影が映った」。

大澤氏ほか『矢矧』の漂流兵たちが助かったことには、次のような人の働きがあったことを記しておく。

一つ目は、『矢矧(やはぎ)』の艦長(原為一(ためいち)大佐)と副長が、万一の沈没に備え、救命用に大量の木材を積載(せきさい)していたこと。足を負傷した大澤氏は、この木材のおかげでおぼれずに助かったのである。

二つ目は、敵の猛攻を受けながらも、味方の艦の誰かが、『矢矧(やはぎ)』の沈没した緯度と経度を正確に記録していたこと。夕暮れのあの海域で人間を発見するのは不可能に近いのである。

そして三つ目は、艦隊の司令官・伊藤整一中将が、戦艦「大和」がもはや復元不可能と知った時、残った艦に対し独断で「特攻中止、乗組員救助」を発令したこと。これは、今の我々には当たり前のように聞こえるが、作戦を中止する権限は軍令部か連合艦隊司令部にあり、現場の司令官にはないのである。その為、太平洋戦争の各所(かくしょ)で大量の戦死者を出したのである。もし伊藤中将が命令に従っていれば、仲間の艦(駆逐艦冬(ふゆ)月(づき))は沈められ、大澤氏が救助されることはなかったであろう。伊藤中将は艦長有賀大佐と共に退艦を拒否、戦艦「大和」と共に海に沈んだ。

人が一命を取り留める時には、往々にして、自分では気づかないところで、人が動いてくれているものである。神の働きとは、このような目に見えない心の働きなのかもしれない。

以上で、大澤氏の戦跡は終わる。

追補 レイテ島の戦い(編集者より)

作戦段階では、日本陸軍がフィリピン北部のルソン島を守り、海軍と航空部隊がフィリピン中南部(レイテ島)を攻撃することになっていた。

陸軍兵士がルソン島に限定された理由は、もし陸軍兵士を中南部に投入するとなると、兵士を船で輸送しなければならない。フィリピンには島が多く、しかも制空権がアメリカに奪われている以上、どこで攻撃を受けるか見当がつかない。さらに、マニラからレイテ島までの航海距離は730kmもあり、兵士と補給物資を安全に輸送することは不可能に近かったからである。

しかし、日本の新米(しんまい)航空兵たちの誤報が原因で、急遽(きゅうきょ)作戦が大きく転換され、日本陸軍までレイテ島に投入されることになった。

この誤報というのは、レイテ沖海戦の4日前、昭和19年10月12~16日の台湾沖航空戦で、日本軍の戦果が敵の巡洋艦2隻の大破にもかかわらず、敵・航空母艦11隻、戦艦2隻を撃沈したという報告。日本の大本営は「敵の戦力をこれだけ奪ったのであれば、レイテ島周辺の敵勢力は軽微である」と思い込み、陸軍もレイテ島に投入してこの際、アメリカ軍の完全排除を狙ったのである。

これに対して、フィリピンの陸軍司令官(山下大将)は大反対した。現地では、飛来する敵航空機の数が減っていない為、虚報だと疑ったからである。日本側の戦力が乏(とぼ)しく、制空権が奪われている以上、マニラからレイテ島まで安全に兵員・物資を輸送するのは不可能だと判断したのである。

しかし、作戦は誤報を信じたまま進み、山下大将が危惧(きぐ)したことがそのまま現実となった。

レイテ島に輸送される兵士や物資は次々と沈められ、島にたどり着いた兵士も敵の圧倒的な戦力の前に血煙をあげた。前線では食糧が枯渇し、非常に多くの餓死者も出した。このレイテ島では死亡率が異常に高く、どの資料を調べても、兵士の94~97%が戦死している。つまり、文字通り玉砕であった。

物事はちょっとしたことがきっかけで大問題に発展する。だから実意丁寧に小事をおろそかにしてはならないのだが、レイテ沖海戦・レイテ島の戦いでは、新米(しんまい)兵の誤報とその確認の怠り、戦力の逐次投入など色々重なり、結果、わずか11ヶ月の間で8万人が戦死したのである。そして、この11ヶ月の間、フィリピン全体では陸軍兵士32万人が戦死したのである。(終)

あとがき

大澤栄一氏は、戦後、平和で豊かな生活を過ごせるようになってからも、戦時中の生死に直面したときのことや、戦友達の戦死が脳裏から去らず、また、戦時中と戦後の余りにも大きな違いを思って、平和を願うところから戦争体験記を書き遺されました。几帳面な性格の方で、原文には丁寧に書き記されており、一部は教会誌に掲載したこともありましたが、著者の平和への強い願いを受け、ここにまとめて掲載させて頂きました。

さて、「まえがき」でも触れましたように、今年は戦後65年になります。戦後も争いは絶えず、手元の資料では戦後から2001年までの間に、世界で225の紛争があり、約2,300万人が亡くなっています。その一方で、昨年2009年には、オバマ米大統領が「核なき世界」を提唱し、米ソ間の核保有量は、交渉において僅かではありますが削減されました。そして、今年2010年8月6日の広島平和記念式典には、国連事務総長ほか、米国の駐日大使や英仏の政府代表が初めて出席し、出席した国は 過去最多の74ヵ国に及びました。これは、核兵器廃絶の祈りと啓蒙活動を地道に続けてきた成果と言えるでしょう。

ただ、人間は難儀な存在で、争いは親子、夫婦の間でも起こります。起こしてはならぬと願っておっても起こしてしまうのが人間なのです。総氏子身上安全、世界真の平和を祈り続けると同時に、人間が持っている素晴らしい神心をいかに現わしていくか。それは一人ひとり、持ち場・立場・状況ですべて異なりますから、本稿では問いかけにして結びの言葉にしたいと思います。

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